![渋川問屋について](https://shibukawadonya.com/wp/wp-content/themes/shibukawadonya/assets/images/about/header-about.jpg)
渋川問屋について
商家の趣ある空間が
大正浪漫の世界へと誘う
会津一の海産物問屋として
隆盛を極めた姿をとどめ、
通りを行く人々の目を奪う
美しい格子の風格ある佇まい。
干物を扱うプロの目利きと
おもてなしの心は、
渋川家の会津郷土料理に
受け継がれています。
海産物問屋として築き上げた
大店の賑わいをそのままに
大正時代築の端正な佇まいの母屋や、
明治時代に建てられた蔵座敷を生かした店内。
往時の商人たちの賑やかな取引の声が、
どこからか聞こえてくるようです。
ごあいさつ
江戸の頃より日本海から
船や馬で山国へ干物が運び込まれ、
海の幸を使った郷土料理が育まれてきました。
海産物問屋という歴史もあり、
この地ならではの豊かな食文化を
次の世代に伝えていきたいという想いで、
当時の作り方で本物志向の料理を提供しております。
料理にまつわる会津の文化や歴史のお話も、
私どものおもてなしのひとつ。
ぜひ五感でお楽しみください。
![五代目 渋川義満 女将 渋川晴子](https://shibukawadonya.com/wp/wp-content/themes/shibukawadonya/assets/images/about/image-07-greeting@2x.jpg)
渋川問屋の歴史
![海産物問屋として創業時の集合写真](https://shibukawadonya.com/wp/wp-content/themes/shibukawadonya/assets/images/about/image-08@2x.jpg)
明治15(1882)年
渋川問屋創業
初代・渋川善太郎が山国・会津で
海産物問屋として創業したのが始まりです。
江戸時代から明治時代にかけて、
北海道と大阪を結ぶ北前船が
日本海を往来していました。
寄港地の新潟から阿賀野川を上り、
北海道の身欠きニシンや棒タラなどの干物が
会津にも運ばれていたのです。
最盛期は
相場を左右する存在に
大正時代から昭和初期にかけての最盛期には
「渋川問屋でニシンの価格が決まる」といわれ、
会津一の海産物問屋に。
肥料や酒、調味料なども扱っていました。
敷地内には渋川家6家族をはじめ、
番頭や住み込みで働く人びとなど
50人ほどが暮らす大所帯でした。
渋川問屋が扱う海産物は、
会津地方の魚屋や料理店、旅館などに供給され、
会津の食を支えていました。
![会津郷土料理として生まれ変わった渋川問屋](https://shibukawadonya.com/wp/wp-content/themes/shibukawadonya/assets/images/about/image-10@2x.jpg)
問屋から
会津郷土料理店へ
昭和50年、会津若松市に卸売市場が開設したことで、
問屋業に幕を下ろした渋川問屋。
四代目の渋川恵男は歴史ある建物を生かそうと、昭和57年、
宿を併設した会津郷土料理店として新たにスタートさせました。
令和3年には五代目の渋川義満が「喫茶開化」をオープン。
変化しながらも、古きよきものを大切に繋いでいます。
◆ 福島県建築文化賞特別賞受賞
◆ 会津若松市歴史的景観指定建造物
◆ 第1回会津若松景観賞まもる賞
◆ 第2回会津若松景観賞つくる賞
![渋川善助と憂国の間](https://shibukawadonya.com/wp/wp-content/themes/shibukawadonya/assets/images/about/image-11@2x.jpg)
渋川善助と「憂国の間」
昭和維新 2・26事件
店舗として使われている母屋2階の6畳間は、
昭和11(1936)年に起こった2・26事件に連座し、
民間人として唯一処刑された渋川善助ゆかりの部屋です。
部屋には善助の写真も飾られています。
![会津郷土料理として生まれ変わった渋川問屋](https://shibukawadonya.com/wp/wp-content/themes/shibukawadonya/assets/images/about/image-12@2x.jpg)
昭幼年期をこの部屋で過ごした善助は、
陸軍士官学校時代には御前講演を
行うほどの秀才だったといわれています。
渋川問屋には
善助について取材をするために、
松本清張氏や沢地久枝氏など
多くの作家が訪れています。
そして、いつしかこの部屋は
「憂国の間」と呼ばれるようになりました。